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Sep, 29, 2014

すっかりブログ更新がご無沙汰になってしまいました。

今年は今年で新しい仕事やあれこれで、これまた変化の年というやつです。

 

ここ最近は、

とってもありがたいことにWEB制作のお仕事を頻繁にいただくようになりました。

WEBをつくることを通して、誰かの表現を少しでも後押しすることができるのは、

この上ない喜びだと感じています。

ただ、それもこれも、依頼をしてくれる皆さんと対等な関係で、

制作ができているからに尽きるのです。

 

先日、カフェで作業をしている時に、

隣でデザイン系の作業をしていた方が、

クライアントらしき人と電話をしているのが聞こえてきました。

その方がクライアントの方とどのような関係なのかはわからなかったのですが、

明らかにそこには上下関係のような感じがあり、

その方はひたすら電話口で「すみませんでした」と繰り返していました。

その時、僕はこう思いました。

何かを作る時に、こうなってしまったら、本当に楽しくないなと。

 

もちろん、それはきっと仕事であるし、

多少の制約や、そういったものはあるのは至極当然です。

でも、制作側とクライアントは、

一つのすばらしいものを作るという目標に向かって、

楽しく対等な関係であるのがベスト。

そう思うのです。

 

そして、僕はこの光景を見ていて、

お金という概念にも疑問を持つことがあります。

僕らがお金を払うのは、

自分ではできないことを他の人に助けてもらうためです。

だから、お金を払ってくれる人が偉いというわけでは決してないはずです。

本当に本当に対等でしかないのだと思います。

それでも、普通に生活していると、

お金を払って、何かを買うお客さんはいつも神様、

そんなような光景をたくさん目にします。

そういった風潮は結局、多くの人を疲弊させるだけです。

 

いつかそういうものがなくなればいいなと本当に思います。

そのためにも、自分としても、

何の上下関係もなくお金を使ったり、受けたりできるような、

そんな人になりたいです。

Jun, 09, 2014

相手が怒りだす

もちろんこちらは何で怒っているのかわからない

理由がわからないからこそ相手は怒っている

 

ここで自分は

何でこんなにいつも短気なんだ!

何で自分は怒られなきゃいけないのか!

と相手に対して思う

 

そう思うということは

もちろん自分が悪いという気持ちは少ないという証拠だ

そして、自分は穏やかで、相手は短気という構図を形作る

そこで、きっとどこか自分の方が大人という気持ちがちょっとあるのだろう

そんな相手に疲れた素振りを見せる

 

自分は何様なんだろうと思う

相手が怒るということ

それはただ単に相手が短気とか劣っているとかそういうことではない

お互いの価値観、考えがあたり前のように違うのだから

そこで怒りが生じる

それは仕方がないことなのだ

もちろん怒りやすい人と、怒りにくい人がいる

でも、それはどっちが素晴らしいということではない気がする

 

怒っていない自分をどこか優れた人間のように思ったりすることは

きっと誰しもあると思う

でも、その怒っていない自分というのは

自分が思っているほどピュアではなかったりする

怒っていない自分に酔っていたり、偉いと思っていたり、

勝手に満足しているだけなのかもしれない

 

それだったら、純粋に喜怒哀楽の一表情を見せている相手の方が

よっぽどさっぱりしているんじゃないだろうか

いい人になるとか

そういうものには時としてこういうフェイクな部分があると思う

そういう醜さがあると思う

 

徒然とつづってしまったけれど

これはとある日の僕のはなし

こうして相手を通して自分というものを学んでいる

May, 13, 2014

今までの自分の人生が

今まで自分がなしてきたことが

すべて自分一人の努力のおかげだとは決して思わない

それでも、それが、

半分ぐらいは自分の努力のおかげだと

そう思うのは別に傲慢ではない

そんな風に思っていた

 

しかし、そんなある日、

「今の自分があるのは、これっぽっちも自分のおかげではない」

そんな言葉に出会った

「これっぽっちも」と言い切れることに

とんでもない強烈なアッパーを受けた気がした

 

「これっぽっちも」と考えることでひたすら謙虚でいるべきだ

いや、決してそんな意味ではない

謙虚であるべきかといった視点を超えている

だって、よくよく考えたら、本当にその通りなのだ

 

私たちは、

◯◯を知っている、◯◯を持っている、◯◯をした

って、自分の成果のように誇らしげに言ってしまったりするけれど

もし、まるっきり違う国に、違う時代に、違う親のもとに生まれたとしたら

そんな成果を残し、そんな自分になっていただろうか?

きっと、そうではない

そのぐらいシンプルなことだ

 

例えば僕は今、ふつうの会話程度なら英語が話せるけれど、

それはあくまでこうして違う大陸にいる人同士が簡単に行き来できる時代になって

たまたま英語を勉強するような国に生まれ

さらに外国人の妻と出会ったから

それだけにすぎない

もちろん自分の努力もある

でも、その努力の前に必ず運命や環境、奇跡や巡り合わせがある

そこから自分の努力がはじまるのだ

 

そんなことを考えていたら

いや、もう本当に、

自分一人でできたことなんて何もないじゃないかと

開き直れるぐらいにそう確信できるのだ

そうしたら、もうそこには客観的な感謝の気持ちしか残らない

そして、自分一人でしてきたことなんてないって、

そう確信すると

なんだか色々な心配もなくなってくる

だって、結局みんなに助けられるしかないのだから

May, 07, 2014

産声のような、何ものにもなる前のものがすき。

どうとでもとれるような、余白を残した表現がすき。

頭の中をそのまま書き出したような、そんな画がすき。

こころが声となってでできたような、唄がすき。

結局のところ、よくわからないものがすき。

だって、よくわからないことばかりだから。

Apr, 14, 2014

最近の自分といったら、おそろしいほどに何かを考えるということが少なくなりました。いや、厳密にはきっと何かを考えてはいるのだろうけれど。今までの自分は、人生のことや、人がどうあるべきか、どう生きるべきかといったことを、考えて生きてきました。でも、その一方で、そういうことをひたすら考えても、それは自分という一人間の頭で考えたことに過ぎないし、それとは関係なしに世界がまわっていたり、自分の人生も進んでいったりすることに徐々に気付き始めました。考えることは決して無駄ではないけれど、考えた末に、頭はどこか「〜であるべき」という結論を最後にだします。そして、その「〜であるべき」は、自分を、そして、そのつもりではなくても、他人を、多かれ少なかれ縛ったりするものなのです。

 

それが、何だかとってもストレスフルだなと思いました。もちろん、人間だから、何かを考えたり、将来の願望を持ったりするのはあたり前なんですが、それはそれで自分で認めてあげる。その上で、別の軸を持つことが実はとっても大事なんじゃないか。そう思いました。その別の軸というのは、自分の考えや願望とはまったくかけ離れていて、それでいてもっともっと精妙ですばらしいものが自然と用意されるっていう考え方。決して、自分の考えや願望、欲を捨てるわけではないけれど、それをただただ自分の我欲だって考えられる勇気。自然と何かが持たらされたら、自分の思考を捨てて、そっちにピョンって飛び移っていける勇気。そうやって生きることの方が、僕は楽なような気がしました。

 

そうやって考えると、自分の考えを特に進化させたりする必要がなくなってきます。だから、無理して考えようとも、哲学しようとも思わなくなりました。そうして、ここ最近、自分自身考えない時間の方が、どんどん多くなりました。考えない時間が増えると、「おい、自分、大丈夫か?」って思うこともしばしば。考えないことへの罪悪感みたいなものがあるんだなと気付きます。この現代社会の中で、考えないっていうことは、どこか遅れをとるような感じがするし、それだけで自分は取り残されるんじゃないかって。そんなマインドセットが、知らず知らずのうちに、自分には埋め込まれていたんだなと、ただただ恐い気持ちになりました。でも、別に、それでいいんだなって、今は思えます。考えない方が、目の前で起こったことにすぐ反応できるから。もっとピュアに反応できるから。僕は考えることで自分が進んでいっている気になっていたけれど、どんどん自分の上に、色々なものを塗りたくっていただけなんだなと今はただただそう思うのです。

 

じゃあ、今、何を考えているのかっていえば、ただ食、料理のことです。考えていて、楽しいから。楽しいことだけを考えることにします。だって、自分がひたすら考えたって、自分の人生は神様のお導きみたいなのに導かれて、思いもよらない方向にいったりするのだから。せめて、自分の頭っていう自由な領域ぐらい、好きなことだけ考えて、好きなことだけするっていうのも、いいじゃんって思うのです。あとは、任せます。自然のなりゆきを。そのぐらいのゆるさがちょうどいいや。