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Mar, 02, 2014

ヒカリエにあるJoel Robuchonのパンが美味しそうに見えすぎて、その姿に誘われてしまった日曜日。いや、美味しそうじゃなくて、美味しいのだけれども。ここのフォカッチャがボリュームがあって、そして美味しいのです。ぜひぜひおすすめです。Joel Robuchonといえば、季節限定でエビスのコラボビールが近年出ているけれど、それはなんだか苦手で、結局シルクエビスにはしってしまう。

 

そんなこんなで今日はあいにくの雨模様。教会のあとに、散歩がしたかったけど、そうもいかず。晴れの魔力というものを、あらためて感じるのです。それでも、雨の日は雨の日の雰囲気があって、それがなければ晴れの日とのコントラストが一切ないのだから、雨にも感謝せねば。

 

そんなこんなで帰路にたつけれど、近所の信号もこころなしか元気がなさそうに見える。そんな思いで家に戻ってみたら。

 

中学時代の友人からのお祝いが…。料理が、、、、そして、味噌汁が大好きな自分にはあまりにもピンポイントないただきもの! こんなにピンポイントってあるのですか。もうこれはせっせと味噌汁もっと探求せえってことなのでしょうか。とにもかくにも、人の気持ちというものが本当にうれしくて、心からありがとうという気持ちに。食べものではじまり、食べもので終わった一日です。やっぱり、食ってワクワクするものです。

 

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Feb, 27, 2014

いつからか、カレーは市販のカレールウだけじゃもの足りなくなった。自分なりにいろんなものを入れるようになってから、我が家のカレーはイタリアンっぽいのか、インドっぽいのか、和なのか…よくわからない状態だ。

 

最近の鉄板の材料は、市販のカレールウ(基本、なんでもいい)、トマト缶、オリーブオイル、煮干し、味噌、豆乳、バター、にんにく、クミン、ガラムマサラだ。(あっ、具はなんでもOKです。とりあえず野菜をなんでも入れてしまえばとっても美味しい。)このうち、ポイントは豆乳と味噌。そして、何気に煮干しは本当においしい。味噌汁を愛していると、その愛は煮干しへの愛に変わって、あげくの果てにカレーにまで煮干しを入れる始末。最初にオリープオイルで、煮干しを素揚げのようにして味を油に移すんです。これ、おすすめです。

 

そんなこんなで、カレー4日目に突入です…笑。

 

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Feb, 23, 2014

昨年のある日、夜の9時頃に仕事から帰ったときがあった。

何を血迷ったか、そんな時間にもかかわらず、

トマト缶とタマネギ、セロリを買って、大量にトマトソースを作った。

その他にも色々つくって、食べて、片付けてとしていたら、

あっというまに11時になってしまった。

 

すべてが終わってふと思った。

「こんな遅くまで、なにやってんだろう……」

ただただトマトソースが作りたくて、作っていたら、そんなことになってしまった。

でも、それが楽しかったから、

何の苦ももちろんない。

 

明らかに自己満。

自分が作りたかったから、

食べたかったからというだけ。

料理をするときはいつだってそうだ。

もちろん、妻はぼくの料理をいつもかなり喜んでくれる。

でも、それ以前に、

自分が食べたいから作るっていうのが大きい。

そんな私欲の存在なのだ。

そう、ただの自己満だ。

 

自己満というと、なんかわるいイメージだ。

ぼくも今までよくないイメージをどこかで抱いていた。

ジコチューにちかいグループ。

 

でも、最近ちょっと待てよって思っている。

自己満って実はわるくないんじゃないか?って。

自己満って勝手に自分で満足しているんです。

だれに良く言われなくとも、

勝手に満足できるんです。

僕自身も含め、人ってどこか認められたいっていう欲が強いと思う。

でも、自己満って人に良く言われなくとも、

勝手に幸せなんです。

他人に依存しない。

他人に何かしてもらったり、

言ってもらったり、

他人の評価だったりを、

気にせずとも超ハッピーなわけです。

 

それって、よくよく考えたら、

とってもすごいし、輝かしいと思うのです。

そして、自己満していて、

いつもハッピーなわけだから他にも寛容になれるんじゃないかなって。

 

人を気遣って、

人に尽くす。

もちろん、そうだ。

でも、自分がまず勝手に幸せであるということは、

人に寛容に、そして優しくなれる第一歩じゃないかなと思うのです。

 

さっさと自己肯定しなよって感じです。

自己肯定して他者肯定して、

みんな肯定しあえばいいと思います。

みんな自分を犠牲にしないで、

優しくなれるそんな世界。

ええなあ。

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Feb, 20, 2014

いつからか急に涙もろくなった自分に気付いたとき、

なんでかなと思ったことはありませんか?

 

ぼくはなぜか20歳ぐらいを境に急に涙もろくなりました。

10代の頃の涙といえば、大抵が悔し涙でした。

でも、なぜか20歳を境に感動の涙になったのです。

20歳が何かの起点ということはないのだと思いますが、

なぜ涙もろくなったのかといえば、

歳を重ねるにつれて、自分が経験することが多くなって、

「その気持ちわかる」って思えることが多くなったということなのだと思います。

 

人はその立場にならないと、その人の気持ちはわからない

と、よく言いますが、

本当にそのとおりで、結婚してからは、

恋人を亡くすとか、そういうストーリーがありえないほど、

ストレートにこころをつつくようになりました。

もし子どもができて親になったりなんかしたら、

それはそれは、、、

もっと涙の回数は増えるのだろうなと想像します。

 

10代だったとき、

バンドをしていたぼくは夜型の活動が多かったりして、

終電で家に帰ることが多かったことを思い出します。

そして、人に迎えにきてもらったり、

そういうのが嫌いなぼくは、

自転車か歩きで帰ることがほとんどでした。

地元は本当に田舎なので、

終電が止まる駅から家まで歩くと1時間をこえたりして、

さらに田舎の道というのは電灯も本当に少なく、

たとえ男とはいえ、ちょっとした危険もありました。

今思うと、親もそれなりには心配していたと思います。

 

ある時、真夜中のバイト帰りに連絡をしないで帰ったことがあって、

家についたのは午前3時。

基本は放任な親ですが、親は寝ずに待っていました。

そして、とても怒っていました。

その時は、正直、なんでそこまで、、、、

そんなに心配しなくても大丈夫なのにって、

思っていました。

 

でも、今思うと、

自分のおもいやりのなさにビックリします。

まだ親にはなっていないけれど、

今なら少しはわかるような気がします。

 

人は歳を経て、そのステージにいかないと、

そのステージの人の気持ちはわからない。

そうすると、子どもと親は、

その当時にお互いの気持ちを深く理解しあうのは、

すごくむずかしいということです。

子どもが親にならないと親の気持ちはわからない。

でも、親はその時、おじいちゃんおばあちゃんになっている。

その時、親になった子は、おじいちゃんおばあちゃんの気持ちはわからない。

そうやって、永遠に時間軸の差は埋まらないんです。

 

人間ってそういうものなのかなぁと納得はできます。

でも、なんかそれがちょっと悲しくて。

いや、相当かなしくて。

この時空を超えられないものかと、

いつだって思うのです。

 

 

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Feb, 18, 2014

“幸せは何気ない日常にある”

と、いろいろな人がいろいろな場で言っている。

まさしくそう思う。

 

毎日、家族といれること。

毎日、だれかと食卓をかこむこと。

朝を迎えられること。

燦々とした太陽のもとで散歩ができること。

 

何気ないものが本当に幸せだ。

でも、その幸せを感じられない人が多いらしい。

でも、もしそれが幸せなのだとしたら、

なんで感じられない人が多いのだろう。

 

それは、みんながみんな、

物質的な欲ばかりあるからなのだろうか。

いや、あまりそうは思わない。

 

何気ない幸せが感じられないってことは、

きっとどこかに無理がある状態なのだと思う。

時間がない。

いつも忙しない。

頭の中はいつも外のことばかり。

そういう状態でその何気ない幸せとやらは感じれるのだろうか。

そんな暇なんてないのだと思う。

「忙」という感じは、心を亡くすと書くし。

心はセンサーなのだから、

それが不感になるということは、

とってもこわいものだなと思う。

 

「幸せは外にはない」

「何気ない日常に幸せを見いだそう」

たしかにそうかもしれない。

でもさ、それにだって限界があるよ。

もちろん自然に感じられる人だっている。

けど、見いだそうって特に意識されなきゃいけないのなら、

それはそこにちょっと無理があるということ。

 

だから、幸せが幸せと感じれるように、

少しずつ自分をゆるめていく。

幸せが幸せと感じれる幸せを。

取りもどしたい。

 

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