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Oct, 10, 2014

【隣の芝生が青く見える】

昨日本屋に行ってブラブラしていたら、そんな言葉が降りてきた。

 

ふと考えたら、本屋という情報の海は、

まさしく【隣の芝生が青く見える】状態の極みではないかと思った。

別にそれが良い悪いの話ではまったくない。

 

本屋は昔から本当に好きだし、

そもそも本自体が大好きだ。

だから、本屋でゆったり過ごすことは本当に至福の時なのだ。

本屋にいると、色々な可能性が見えてくるし、

何でもできるような気分になる。

それが本当にすごい感覚だなと思う。

 

ただ、それでも、実際に本屋を離れてから自分が新しくする行動と言ったら、

実はほんの少しであったりする。

本屋に行ったからと言って、

本来の自分は実はあまり変わらない。

それでも、変わった気分になれるのが本屋だ。

落ち着いて考えると、本屋は自分にとって、そんな場所だ。

 

それぞれの人の苦労や人生、成功談が記された本が数えきれない程並んでいる。

まさに、隣の芝生が無数にある場が本屋だ。

そして、その芝生たちは大体がめちゃくちゃ輝いて見える。

その状態が何かを生み出してくれることもあれば、

きっとその状態に溺れてしまうことだってきっとあるのだろう。

 

最近、ほとんど本を買わなくなった自分だけど

本屋さんとの上手い付き合い方ができたらいいなと思った週末フライデー。

もちろん、本屋さんは大好き。

でも、客観的にそういう場なんだと認識し始めたら、

見方が変わってきたような気がする。

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Sep, 29, 2014

すっかりブログ更新がご無沙汰になってしまいました。

今年は今年で新しい仕事やあれこれで、これまた変化の年というやつです。

 

ここ最近は、

とってもありがたいことにWEB制作のお仕事を頻繁にいただくようになりました。

WEBをつくることを通して、誰かの表現を少しでも後押しすることができるのは、

この上ない喜びだと感じています。

ただ、それもこれも、依頼をしてくれる皆さんと対等な関係で、

制作ができているからに尽きるのです。

 

先日、カフェで作業をしている時に、

隣でデザイン系の作業をしていた方が、

クライアントらしき人と電話をしているのが聞こえてきました。

その方がクライアントの方とどのような関係なのかはわからなかったのですが、

明らかにそこには上下関係のような感じがあり、

その方はひたすら電話口で「すみませんでした」と繰り返していました。

その時、僕はこう思いました。

何かを作る時に、こうなってしまったら、本当に楽しくないなと。

 

もちろん、それはきっと仕事であるし、

多少の制約や、そういったものはあるのは至極当然です。

でも、制作側とクライアントは、

一つのすばらしいものを作るという目標に向かって、

楽しく対等な関係であるのがベスト。

そう思うのです。

 

そして、僕はこの光景を見ていて、

お金という概念にも疑問を持つことがあります。

僕らがお金を払うのは、

自分ではできないことを他の人に助けてもらうためです。

だから、お金を払ってくれる人が偉いというわけでは決してないはずです。

本当に本当に対等でしかないのだと思います。

それでも、普通に生活していると、

お金を払って、何かを買うお客さんはいつも神様、

そんなような光景をたくさん目にします。

そういった風潮は結局、多くの人を疲弊させるだけです。

 

いつかそういうものがなくなればいいなと本当に思います。

そのためにも、自分としても、

何の上下関係もなくお金を使ったり、受けたりできるような、

そんな人になりたいです。

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Jun, 09, 2014

相手が怒りだす

もちろんこちらは何で怒っているのかわからない

理由がわからないからこそ相手は怒っている

 

ここで自分は

何でこんなにいつも短気なんだ!

何で自分は怒られなきゃいけないのか!

と相手に対して思う

 

そう思うということは

もちろん自分が悪いという気持ちは少ないという証拠だ

そして、自分は穏やかで、相手は短気という構図を形作る

そこで、きっとどこか自分の方が大人という気持ちがちょっとあるのだろう

そんな相手に疲れた素振りを見せる

 

自分は何様なんだろうと思う

相手が怒るということ

それはただ単に相手が短気とか劣っているとかそういうことではない

お互いの価値観、考えがあたり前のように違うのだから

そこで怒りが生じる

それは仕方がないことなのだ

もちろん怒りやすい人と、怒りにくい人がいる

でも、それはどっちが素晴らしいということではない気がする

 

怒っていない自分をどこか優れた人間のように思ったりすることは

きっと誰しもあると思う

でも、その怒っていない自分というのは

自分が思っているほどピュアではなかったりする

怒っていない自分に酔っていたり、偉いと思っていたり、

勝手に満足しているだけなのかもしれない

 

それだったら、純粋に喜怒哀楽の一表情を見せている相手の方が

よっぽどさっぱりしているんじゃないだろうか

いい人になるとか

そういうものには時としてこういうフェイクな部分があると思う

そういう醜さがあると思う

 

徒然とつづってしまったけれど

これはとある日の僕のはなし

こうして相手を通して自分というものを学んでいる

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May, 13, 2014

今までの自分の人生が

今まで自分がなしてきたことが

すべて自分一人の努力のおかげだとは決して思わない

それでも、それが、

半分ぐらいは自分の努力のおかげだと

そう思うのは別に傲慢ではない

そんな風に思っていた

 

しかし、そんなある日、

「今の自分があるのは、これっぽっちも自分のおかげではない」

そんな言葉に出会った

「これっぽっちも」と言い切れることに

とんでもない強烈なアッパーを受けた気がした

 

「これっぽっちも」と考えることでひたすら謙虚でいるべきだ

いや、決してそんな意味ではない

謙虚であるべきかといった視点を超えている

だって、よくよく考えたら、本当にその通りなのだ

 

私たちは、

◯◯を知っている、◯◯を持っている、◯◯をした

って、自分の成果のように誇らしげに言ってしまったりするけれど

もし、まるっきり違う国に、違う時代に、違う親のもとに生まれたとしたら

そんな成果を残し、そんな自分になっていただろうか?

きっと、そうではない

そのぐらいシンプルなことだ

 

例えば僕は今、ふつうの会話程度なら英語が話せるけれど、

それはあくまでこうして違う大陸にいる人同士が簡単に行き来できる時代になって

たまたま英語を勉強するような国に生まれ

さらに外国人の妻と出会ったから

それだけにすぎない

もちろん自分の努力もある

でも、その努力の前に必ず運命や環境、奇跡や巡り合わせがある

そこから自分の努力がはじまるのだ

 

そんなことを考えていたら

いや、もう本当に、

自分一人でできたことなんて何もないじゃないかと

開き直れるぐらいにそう確信できるのだ

そうしたら、もうそこには客観的な感謝の気持ちしか残らない

そして、自分一人でしてきたことなんてないって、

そう確信すると

なんだか色々な心配もなくなってくる

だって、結局みんなに助けられるしかないのだから

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May, 07, 2014

産声のような、何ものにもなる前のものがすき。

どうとでもとれるような、余白を残した表現がすき。

頭の中をそのまま書き出したような、そんな画がすき。

こころが声となってでできたような、唄がすき。

結局のところ、よくわからないものがすき。

だって、よくわからないことばかりだから。

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