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Mar, 21, 2013

私、kenkouboyも色々と変化がありましてあたふたしている今日この頃です。

人生って本当に奇跡というか、人間という自分がそれを好もうが好まいが、こう知らんぷりをされているかのように、デザインされているのだなと思っています。

 
 

色々考えてみると、人生に対しての人間の関わり方ってのいうのは人それぞれだなとつくづく思うのですが、

「人生における自分と何か見えないもの(神様のようなもの)との関係」

というテーマで考えてみると

 
 

見えないものの働きなんてまったく信じず、自分で人生は動かせると強く信じ、自分の行為の積み重ね(見えるもの)=人生だと思う人。

かたや、神頼みで、何もしなくても、神様が何とかしてくれると特に自分で積極的に動いたりしない人。

 
 

うん、いろいろな人がいる。

 
 

当の自分はというと、そのどっちでもなく、世の中も人の人生も見えないものに上手いことデザインされているなと思ってはいても、でもどこかでやっぱり人間の行為がそのデザインと深く関わっているのだなと思うわけです。

世の中、自分の行いだけではどうしようもないこともあって、そういう意味では人間は万能だなんて思わないのだけれど、やっぱり自分が勇気を持って何か踏み出してみる事で、見えないものが自分の人生のデザインを見せてくれるようなことってのは大いにあるんだなって思うんです。

 
 

要は、半分半分ということでしょうか。

 
 

「神様と自分、半分半分」

 
 

神様に頼ることなく、かといって「自分で何でもできるよ」だなんて驕ったりもせず。
自分の所作と見えないものの力、その組み合わせで人生が動いていく。

 
 

これは、なんというか今社会で起こっている色々な出来事にも言えることなのかもしれません。
原発のことも、TPPのことも、なんでもそう。。。
人間の所作という視点だけですべてを語ってないか。。。。

 
 

人間捨てたもんじゃない。
でも、調子にのりなさるな。

 
 

そんな事を考える、変化の春を目の前にした私でした。

Feb, 20, 2013
私事ながら、今日は大事な日。

 

 

今日で今のパートナーと付き合い始めて丸2年。台湾系カナダ人である彼女とは大震災があったあの日の少し前に出会った。それからというもの、震災の時も原発のことがありながらも日本に残って頑張ってくれた彼女とは、色々な事がありながらも2年という月日を一緒に過ごす事ができている。その事だけでまずとてもpreciousなのだ。

 

 

自分の中で2年間人と付き合うのは初めてで、さらにそれが異国の人であるから正直色々なことがあった。言葉も違えば、食べ物も文化も違う。ましてや、無宗教とクリスチャンという宗教的な大きな違いもある。とにもかくにも違いが多すぎた。

 

 

違いがありすぎて、まずはそういう小さくて大きな無数の違いを衝突しながらお互いで確認することから始まった。今でもそういった違いの確認は日常茶飯事だ。違いが生む衝突は正直疲れる。でも、不思議なもので違いというのは、愛を蝕んでいくものではないということに徐々に気付いてくるのだ。数年前の自分であれば、違うことが多ければ多いほどその2人の関係というものは離れていくものだと思っていた。でも、今思うのは、違いがあればあるほど、それを理解しようとする労力が生まれ、その労力に気持ちと体力を割けるということ自体が、愛の始まりなのではないかということ。

 

 

誰だって面倒なことはしたくない。違いを理解しようと努めるなんて明らかに面倒だ。誰だって自分の信条にYesと無条件に言ってくれる人は可愛い。でも、人間はある一定の人に対してはそういう面倒なことも平気でできてしまう。そう愛する人に対してはだ。親、子、パートナー、大切な友人。そんな面倒なことはしてあげたいと思える人にどれほど出会えるかというのは人生の中ですごく重要なものであるような気がする。

 

 

いつも思うことがある。やっぱり、人生は奇跡の連続だ。

自分が生まれる6年も前に台湾で生まれた一人の人間がその後ほぼ裏側のカナダに渡り、最終的に日本にやってくる。そこで、日本に23年もいる自分とたまたま出会う。どこかお互いの進路や気持ちに少しでも違ったところがあれば絶対出会わなかった。

 

 

そんな奇跡をこれからも大事にしたい。そして、パートナーに限らず、これまで出会った人、これから出会う人、そして物事。それはすべて本当に奇跡的に出会っている。スピリチュアルうんぬんかんぬんじゃなくて、本当に奇跡なのだ。だから、その奇跡をいつもキャッチできるように敏感に生きていきたい。

 

 

とにもかくにも、ありがとう。

 

 

Jan, 29, 2013

先日、本屋の哲学コーナーで「なぜ人は人を殺してはいけないのか」というタイトルを目にしました。

うん、いかにも哲学だ。

 

 

そして、どうやら自分の頭はその答えを理路整然と出せるほどに達していないのだと気付いて少しガックリするわけだけれど、そのガックリも通り越して、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに真剣に考え始めることをしなかった自分に少し安心した。

ただただ、「それはダメでしょ」としか思えないのだ。感覚的に『ダメ』。それしか答えはない。

 

 

考えてみると、この手の類いのものってたくさんある。

理由なんて何もなくても「No」と言えるもの。戦争や虐殺。原爆。

でも、そういうものは世の中に平気で世の中に存在している。感覚的に「No」であるに決まっているのに、誰かが余計な頭を使って正当だと言える理由をくっつけて、存在させている。

頭って時に余計なんだ。

 

 

何についても考えることは大事だ。

その奥にある「なぜ?」や「正当性」をしっかり考えたい。

でも、戦争とか殺人とか、そういう命題を目の前にした時、僕は積極的に頭を使うことを放棄したいと思う。

感覚的にNoで良いからだ。

 

 

あれこれ考える事は時に、悪も正義へと変えるのだから。

 

 

Nov, 08, 2012

今日もなんとなく生きてる。そんな感覚にちょっと怖さを持ちました。

 

 

なんとなくって、何だろう?

生ってそもそも意味があって、天から落ちてきているはずです。そして、今現在進行形で自分が生きていられることにも意味がある。なんとなくってそもそもあり得ないのかもしれません。

 

 

では、なんとなくって感じてしまう所以はどこにあるのだろうか。

それはきっと今に満足できてない、どこか消化不良、今に純粋じゃないからなのかもしれません。今に純粋に生きるってのは本当に難しい事だなと最近改めて感じています。人間はどうしても現在より、過去や未来に思いを馳せてしまいます。過去の栄光にすがったり、未来の理想像を不用意に作り上げる事に時間をかけてしまいがちかもしれません。

 

 

でも、よく考えてみると、過去の栄光を作った自分はきっと過去の自分にとっての現在に一生懸命だったはずです。また、未来の理想の自分だって、現在の行いの積み重ねしか辿り着けないはずです。とすると、常に重要なのは現在、今へのコミットなんだと思います。

 

 

今に一生懸命とはいっても、今という時間感覚は難しいです。自分が今だと思ってた事も数秒後には過去になっていますよね。今を掴むってのは、よくわからない感覚です。それでも、こうしてブログを書いている自分が今の自分で、これがどう未来に繋がるかなんてわからないけれど、それでも今という時間を使って書いています。

 

 

自分は将来の役に立つ何かをするというのが苦手です。「将来のためにこの資格を取ろう」「この知識は自分の役に立つから本を買おう」とかそういった類いの行動ができません。その都度、興味があって熱中できるものしか、勉強できません。なぜなら、役に立つというのはあくまで社会が言っている話の可能性が高いし、もし勉強したのに役に立たなくなった時に、人や社会のせいにしたくないからです。だからこそ、自分がその時々で興味あることしか勉強しません。そうやっていれば、それが役に立とうが立たまいが、どうでも良くなってきます。だって、それは自分が好きなことですから。

 

 

でも、よく考えてみると、そうやって計画性無しに吸収していても、それは確実に自分の肥やしになっていると思います。過去してきた事が、数年経って、「あーー、こう繋がるんだ」って感じる事もよくあります。僕にとっては、未来は現在から計算して作りあげるものでなく、現在に100%でいる事で点を打っていき、あとになって点と点が繋がるように知覚されるものです。

 

 

だから、これからもずっと今を生きなければいけないなと思います。

過去や未来の奴隷にならないように。

皆さんにとって、今って何ですか?

 

Nov, 05, 2012

今週末にfacebookの友人を、パートナーとパートナーの家族などの一部の人以外、一旦0に戻すという試みをしてみました。結局、facebook上での友人は10人ほどに減りました。

 

 

なぜ、このような事をしたのか。facebookについては、何か一種の違和感を感じながらいつも使っていました。その違和感はいくつかあるので今回はそこの所を書いてみたいと思います。ただ、ひたすら箇条書きで、失礼します。

 

 

 

 

・facebookでは、家族、パートナー、親密な友人、知り合ったばかりの人、1回しか会った事のない人。という色々な距離感の人がみんな一つの「友達」というものにカテゴライズされてしまい、自分の投稿が一律にそれらの人に行き渡ってしまうこと。その結果、極端にプライベートなもの、思想信条などは投稿しずらく、投稿は常に当たり障りのないものになってしまう。もちろん、投稿の公開範囲はカスタマイズできますがいちいち一人一人を設定するのは現実的にかなり面倒。

 

・facebookでの友人の多さ、イイネの数、投稿の多さに一喜一憂して、facebookの世界が現実世界かのように感じてしまうのはまずいなと思ったということ。もちろん、そう思わないようにしていても、現実facebookを使っているとそういう感覚になる。中毒というのは怖いもので、自分だけはそうではないと思っていても、そう思っている自分はすでに該当者なのだ。

 

・考えが古いも新しいもないと思うけれど、「古い」と言われること前提で言うと、やっぱり何でもオープンなのは疲れる。そう言うのならば、自分が投稿しなければ良いという事になるけれど、自分が投稿しなくても無数の人の生活の模様がfacebookを通して入ってきて、もちろん友人の喜ばしいことなどを見るのは嬉しいし、良い面もある。けれど、知りたい事も知りたくない事も含めて情報の塊が膨大すぎて、それに疲れるし、何だか人の人生を生きているような気分になってくる事が度々ありました。

 

 

 

 

そんなこんなで、facebookを控えめにしてみても何ら苦でもなく、むしろスッキリした感じがします。一旦、facebook上で友達になると、それを解除するのにどうしても「申し訳なさ」を感じる事もあるのですが、しっかりと事情を説明すれば良い話ですし、そもそもfacebook上での繋がりが切れたら切れるような関係は大事な関係ではないのでそこに執着する必要もないのかなと思います。

 

 

自分自身、外国人のパートナーに出会ってからというもの、「正直であること」「八方美人になるべきではないということ」を嫌というほど学び、考えてきました。この2点を大事にすると、こんなにも楽になってくるのだなと改めて感じています。facebookという恐ろしいほど便利なツールも、自分が自分らしくなくなってきたらSTOPするのも一つの選択肢かもしれません。特に、日本だと、「申し訳ない」とか本音と建前の世界の中で、facebook上の友人が知らぬ間に膨大になって生きづらくなることもあるかもしれません。

 

 

自分もこれからもfacebookを使い続けますが、個人アカウントはスリムに保ち続けたいと思います。冷えとり関連で、facebookの友人申請をして頂いた方もいらっしゃるのですが、そのような理由で承認はお断りしています。ご了承下さい。これからは、個人アカウントはスリムに保つ一方で、facebookページ等を別個に作るという手も考えています。

 

 

また、twitterに関しては今後もどんどん活用していきたいです。なにせ、Twitterはそういう難点があまりないので、素直に呟けますし、ダイレクトな反応を頂けるのもすごく嬉しい事です。

 

 

ではでは、今日はこんな所で!!