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Jan, 29, 2013

先日、本屋の哲学コーナーで「なぜ人は人を殺してはいけないのか」というタイトルを目にしました。

うん、いかにも哲学だ。

 

 

そして、どうやら自分の頭はその答えを理路整然と出せるほどに達していないのだと気付いて少しガックリするわけだけれど、そのガックリも通り越して、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに真剣に考え始めることをしなかった自分に少し安心した。

ただただ、「それはダメでしょ」としか思えないのだ。感覚的に『ダメ』。それしか答えはない。

 

 

考えてみると、この手の類いのものってたくさんある。

理由なんて何もなくても「No」と言えるもの。戦争や虐殺。原爆。

でも、そういうものは世の中に平気で世の中に存在している。感覚的に「No」であるに決まっているのに、誰かが余計な頭を使って正当だと言える理由をくっつけて、存在させている。

頭って時に余計なんだ。

 

 

何についても考えることは大事だ。

その奥にある「なぜ?」や「正当性」をしっかり考えたい。

でも、戦争とか殺人とか、そういう命題を目の前にした時、僕は積極的に頭を使うことを放棄したいと思う。

感覚的にNoで良いからだ。

 

 

あれこれ考える事は時に、悪も正義へと変えるのだから。

 

 

Nov, 08, 2012

今日もなんとなく生きてる。そんな感覚にちょっと怖さを持ちました。

 

 

なんとなくって、何だろう?

生ってそもそも意味があって、天から落ちてきているはずです。そして、今現在進行形で自分が生きていられることにも意味がある。なんとなくってそもそもあり得ないのかもしれません。

 

 

では、なんとなくって感じてしまう所以はどこにあるのだろうか。

それはきっと今に満足できてない、どこか消化不良、今に純粋じゃないからなのかもしれません。今に純粋に生きるってのは本当に難しい事だなと最近改めて感じています。人間はどうしても現在より、過去や未来に思いを馳せてしまいます。過去の栄光にすがったり、未来の理想像を不用意に作り上げる事に時間をかけてしまいがちかもしれません。

 

 

でも、よく考えてみると、過去の栄光を作った自分はきっと過去の自分にとっての現在に一生懸命だったはずです。また、未来の理想の自分だって、現在の行いの積み重ねしか辿り着けないはずです。とすると、常に重要なのは現在、今へのコミットなんだと思います。

 

 

今に一生懸命とはいっても、今という時間感覚は難しいです。自分が今だと思ってた事も数秒後には過去になっていますよね。今を掴むってのは、よくわからない感覚です。それでも、こうしてブログを書いている自分が今の自分で、これがどう未来に繋がるかなんてわからないけれど、それでも今という時間を使って書いています。

 

 

自分は将来の役に立つ何かをするというのが苦手です。「将来のためにこの資格を取ろう」「この知識は自分の役に立つから本を買おう」とかそういった類いの行動ができません。その都度、興味があって熱中できるものしか、勉強できません。なぜなら、役に立つというのはあくまで社会が言っている話の可能性が高いし、もし勉強したのに役に立たなくなった時に、人や社会のせいにしたくないからです。だからこそ、自分がその時々で興味あることしか勉強しません。そうやっていれば、それが役に立とうが立たまいが、どうでも良くなってきます。だって、それは自分が好きなことですから。

 

 

でも、よく考えてみると、そうやって計画性無しに吸収していても、それは確実に自分の肥やしになっていると思います。過去してきた事が、数年経って、「あーー、こう繋がるんだ」って感じる事もよくあります。僕にとっては、未来は現在から計算して作りあげるものでなく、現在に100%でいる事で点を打っていき、あとになって点と点が繋がるように知覚されるものです。

 

 

だから、これからもずっと今を生きなければいけないなと思います。

過去や未来の奴隷にならないように。

皆さんにとって、今って何ですか?

 

Nov, 05, 2012

今週末にfacebookの友人を、パートナーとパートナーの家族などの一部の人以外、一旦0に戻すという試みをしてみました。結局、facebook上での友人は10人ほどに減りました。

 

 

なぜ、このような事をしたのか。facebookについては、何か一種の違和感を感じながらいつも使っていました。その違和感はいくつかあるので今回はそこの所を書いてみたいと思います。ただ、ひたすら箇条書きで、失礼します。

 

 

 

 

・facebookでは、家族、パートナー、親密な友人、知り合ったばかりの人、1回しか会った事のない人。という色々な距離感の人がみんな一つの「友達」というものにカテゴライズされてしまい、自分の投稿が一律にそれらの人に行き渡ってしまうこと。その結果、極端にプライベートなもの、思想信条などは投稿しずらく、投稿は常に当たり障りのないものになってしまう。もちろん、投稿の公開範囲はカスタマイズできますがいちいち一人一人を設定するのは現実的にかなり面倒。

 

・facebookでの友人の多さ、イイネの数、投稿の多さに一喜一憂して、facebookの世界が現実世界かのように感じてしまうのはまずいなと思ったということ。もちろん、そう思わないようにしていても、現実facebookを使っているとそういう感覚になる。中毒というのは怖いもので、自分だけはそうではないと思っていても、そう思っている自分はすでに該当者なのだ。

 

・考えが古いも新しいもないと思うけれど、「古い」と言われること前提で言うと、やっぱり何でもオープンなのは疲れる。そう言うのならば、自分が投稿しなければ良いという事になるけれど、自分が投稿しなくても無数の人の生活の模様がfacebookを通して入ってきて、もちろん友人の喜ばしいことなどを見るのは嬉しいし、良い面もある。けれど、知りたい事も知りたくない事も含めて情報の塊が膨大すぎて、それに疲れるし、何だか人の人生を生きているような気分になってくる事が度々ありました。

 

 

 

 

そんなこんなで、facebookを控えめにしてみても何ら苦でもなく、むしろスッキリした感じがします。一旦、facebook上で友達になると、それを解除するのにどうしても「申し訳なさ」を感じる事もあるのですが、しっかりと事情を説明すれば良い話ですし、そもそもfacebook上での繋がりが切れたら切れるような関係は大事な関係ではないのでそこに執着する必要もないのかなと思います。

 

 

自分自身、外国人のパートナーに出会ってからというもの、「正直であること」「八方美人になるべきではないということ」を嫌というほど学び、考えてきました。この2点を大事にすると、こんなにも楽になってくるのだなと改めて感じています。facebookという恐ろしいほど便利なツールも、自分が自分らしくなくなってきたらSTOPするのも一つの選択肢かもしれません。特に、日本だと、「申し訳ない」とか本音と建前の世界の中で、facebook上の友人が知らぬ間に膨大になって生きづらくなることもあるかもしれません。

 

 

自分もこれからもfacebookを使い続けますが、個人アカウントはスリムに保ち続けたいと思います。冷えとり関連で、facebookの友人申請をして頂いた方もいらっしゃるのですが、そのような理由で承認はお断りしています。ご了承下さい。これからは、個人アカウントはスリムに保つ一方で、facebookページ等を別個に作るという手も考えています。

 

 

また、twitterに関しては今後もどんどん活用していきたいです。なにせ、Twitterはそういう難点があまりないので、素直に呟けますし、ダイレクトな反応を頂けるのもすごく嬉しい事です。

 

 

ではでは、今日はこんな所で!!

Sep, 09, 2012

僕ら人間、地球、自然は完璧にデザインされていると感じる今日この頃です。

 

しかし、それを私達人間が忘れてかけてしまっているのが現代じゃないかなと思うんですね。

そして、それを忘れさせているのは人間自身が作った人工物なんじゃないかなって。

 

 

例えば、冷えとりって、何も病気を治すためにやるわけではないと思うんですね。

 

あくまで、自然に病気を治せる体を取り戻すためにやるものだと。僕らの人間の体って、本来はものすごく素晴らしい自然治癒力を持っている。でも、いつからか人間は薬品というものに自らの体の健康を頼るようになりましたよね。本来、何も使わなくても何でも治せてしまうぐらいの治癒力があるのに。色々な物質に頼ることで自然治癒力を弱めさせて、病気になっては、また物質に頼る。そんな悪循環を繰り返してしまっているのが今なんじゃないかなって。物質に頼る事で、本来は素晴らしいはずの身体機能を信じられなくなっているんだと思います。

 

 

これは、パソコンと人間の頭脳の関係でも言えるのかもしれない。

 

何でもクリエイトできるような頭脳を持っている私達なのに、パソコンの出現でそれに頼りきって、考える事をしなくなった人もたくさんいるはずです。情報を得るだけで何かをしたような気になってしまう事、自分もよくあります。もちろん、インターネットやパソコンはものすごく便利だしこれからも多くの人が使うのだろうけど、でも、もっと自分の脳の素晴らしさを再確認することも大切ですよね。

 

 

色々なものに溢れている現代の中で、何が良いか取捨選択するのは難しいはずです。

でも、もしかしたら答えはずべて既に自分に備わっているのかもしれません。

素晴らしい自己治癒能力、思考する頭。

これさえあれば、何でもできるんじゃないかな。

だから、現代の中で大切なのは、それを忘れる事なく、大切にする。それを取り戻してあげる事なのかも。

 

 

人間や地球、自然は最初から完璧にデザインされている。

それを知る、自覚する、再確認するだけで、何かが変わってくるのかもしれないです。

 

May, 24, 2012

みなさん、『料理』してますか??

 

 

 

『料理』 という言葉。これを二つにばらしてみると、もとになるもの=『料』、筋道=『理』となります。つまり、『料理』とは、元になる食材という名の生物がたどる過程・筋道であり、人間がものを上手く食べられるように手を加えること、又はそれを食べる事を意味するようです。自然界に存在する生物としての動物や魚、植物を採取し、加工し、口に運ぶ。ここまでの一連の過程が料理なのです。

 

 

 

ここで、少し、自分が普段行っている『料理』という行為に想いを巡らせてみます。

 

 

 

ふーん。ちょっと待てよ。自分が普段行っている料理ってちょっと過程が短すぎるな。自分が使っている食材がどこから来ているかは正確にはわかっとらん。加工食品とかは一体どんな風に加工されてるの?そもそも、食材を採取してないし、加工もどこかのメーカーにやってもらっている。ある程度まで加工され、準備された段階の食品を購入して、それを調理する。これが、僕の意味で言う『料理』じゃないか??

 

 

 

と、あれこれと考えるわけですね….笑。そう、私達、現代人の『料理』って実はものすごく簡略化されていますよね。手間を掛けて、あれこれ作ってると錯覚してしまうけれども、スーパーに並んでいる食品という段階で実はかなりの事が済んでしまっているわけですね。とっても便利な世の中です。今は、レンジでチンすればすぐ食べられる食品もたくさんありますから、尚の事、便利です。

 

 

 

では、この現代型『料理』が私達にもたらしてくれるメリットは何か?それはもちろん、時間や労力を節約できるという利便性に集約されています。でも、実はもう一つ重要な点があるんではないかと僕は思っています。

 

 

 

それは、私達が食べる対象である生物と向き合わなくて良いという事です。これをメリットと呼べるのか否かはわかりませんが、少なくともわかりやすい例で言えば、肉を食べる人間が殺される動物と向き合う必要がないという事。これは、肉を食べる人にとっては精神的に大きなメリットなのではないでしょうか。自分が命を頂く対象が殺されるのを目の当たりにすることなく、スーパーに綺麗にパック詰めされて並んだ、数日前まで生き物であった事を連想させないかのような無機質な肉を手に取るだけですむ。スーパーに並んでいる肉を見たからといって、倫理的な問題に考えを巡らすだとか、生について考えるだとか、そんな事を滅多に起らないでしょう。これは、逆説的に言うとメリットなのかもしれません。

 

 

 

そして、この現代型『料理』はもちろんデメリットも生み出します。それは、『料理』の中の大半の過程を自分ではない何かに委ねる事によって、食べる対象である生物に対して向き合う機会が失われ、感謝の念をあまり持たずに食べてしまうという事です。

 

 

 

自分の家で作ったお米と市販のお米。品種も味も客観的に見たらあまり変わらないのかもしれない。それでも、自分の家で作られ、自分が田植えや稲刈りに携わったお米を食べるとき、とてつもない感謝の念と、作られた過程を知っているという安心感をひしひしと感じ取る事が出来ます。これが、何かの命を頂く喜び、食の喜びです。

 

 

 

この喜びの欠如が、食について様々なおかしな問題を引き起こしているのかもしれません。もちろん、この世の中ですべてを元に戻し、自給自足の生活をしようとは思いませんし、現代の主流のシステムを変えようという話でもないです。それでも、現代型『料理』をする中で、自分が手にした食材について色々と考えを巡らしてみることも大事でしょう。