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Apr, 19, 2013

4月19日。仙台は晴れと突風が少し。

 
昔、家庭教師をしていた先のお母さんとお茶をする。

色々と話す。

歳は親子ほどに離れているけれど、距離がなく、すらすらとお話させて頂ける方。

僕がマーマーマガジン別冊body&soulでのインタビューに載った時から、冷えとりを始めてくれたみたいで、今では下半身が温かいという状態がすごくナチュラルなよう。

お子さんの不調も瞬時に治ったようで嬉しい。

こうやって、身近なところから冷えとりが広まるのは、とってもゆっくりな営みだけれど、もっとも確実だ。

 

 

思えば、息子さんの家庭教師をしていた時、勉強は勉強で教えつつ、同時に「学校の勉強なんて広い世の中のほんのひとつに過ぎないから、あまりきばらないでね」と吹き込み、違う話ばかりしていた。

家庭教師としては不適格なわけで。

でも、それはきっと、流れの中で、経験上、有名と呼ばれる大学に入っても、何かが降っておりてくるわけでもないし、余計なプライドなんかもってしまったら、それはそれで逆に危ないなって思ってた自分がいたからこそだった。

でも、そのお母さんはそういう態度にむしろ好意を示してくれた。

なんとなくだけれど、そういうところからも、冷えとりと出会うのは必然なのかもと少し感じる。

そういうこともあって、家庭教師を辞めた今でも有り難いことに関係が続いている。

人との縁に感謝。

 

 

今日は、平等って何だろうってことを考えていた。

昔は、例えば夫婦間での話だとすると、旦那さんも奥さんも平等に色々とやるべきだと思っていた、例えば家事とかね。

平等であることが、平和的に関係を続ける一番の方法だと。

でも、よく考えると、平等なんてないんじゃないだろうか。

きっと、どちらかが多く相手に何かを与えている。

例え、外見上、平等っていう状態だとしても、人間の心の中では「私の方がやってる」ってなっていたら、結局、精神的に平等ではない。

それで、その平等ではないことって、ダメなんだろうかということ。

きっと、それは健全なのだと思う。

お互いに貸し借りがある状態(貸し借りというと語弊があるかもしれない….)、それは実は関係を維持する装置だと思う。

支え、支えられることの証だ。

何もかもが平等で、相手と何の貸し借りがない状態、それは意外に空虚なものなのかもしれない。

 

 

精一杯、人に尽くして、精一杯、人に尽くしてもらう。

それで良い、きっと。

 

 

それにしても、ホシヤマ珈琲は、お客さんの服の色によって、コーヒーカップの色を変えるんですね。

にくいな。

 

 

Apr, 18, 2013

4月18日。仙台は何だかどんよりしている。

ここ、最近、murmur-magazine服部みれい編集長の本、「あたらしい東京日記 」を読んでいる。

すごく好きです。

 

 

今までの自分を振り返ると、日記とかエッセイのようなものはあまり読まない方だった。

なぜあまり読まなかったのか。それはわからない。

きっと、もうちょっと昔の自分は本に答えを求めてたからかもしれない。結論みたいなものを。

日記とかエッセイって、そんなにこう、人生の指南書というわけでもないし、読んだからすぐに何かが 変わるわけでもない。

即効性はないのだ。

でも、こう日常とか曖昧さってのが滲み出ていて、日記やエッセイのようなものの良さを、この段階で初めてわかったような気がしている。なんだか心地よい。

 

 

人間って、何だか説明のつきづらい生きもので、ここ最近は明確な言葉で語れることって実はあまりないんじゃないかなって思う。

常に混沌としていて、上手く言葉に表せないような感情で溢れている。

それだから、たまにではあるけれど、こう筆者が読者にある種の教授をするような本に疲れてしまう時がある。

そんな簡単じゃないよねって思っちゃうのだ。

だから、こう淡々と事実と想いがランダムに書かれた日記やエッセイのようなものにすごく安心感を覚える。

生活に寄り添ってくれる気がするのだ。

 

 

そんなことを半身浴をしながら考えてはいたけど、「kenkouboyなのにビール好きすぎて、けっこ飲んだりしてるな」とかどうでも良いことを同時に考えてもしていて、健康ってなんだろうねとも思ったり。

 

 

日々、色々考えているので、できるだけ頻度を保ちながら、このブログの場でも、日記的に綴ってみようかなというモチベーションになったので、やってみようかなと思ってます。

 

 

おまけです。

 

 

 

週末に行った、大河原の千本桜。

 

 

これまた、週末に行ったミスチルのライブでの1枚!

 

 

P.S  私、kenkouboyも来月から少し時期はずれの新生活です。それについては、後ほど書きます。

 

 

ではでは。

Apr, 02, 2013

「白か黒で答えろ」という 難題を突きつけられ

ぶち当たった壁の前で 僕らはまた迷っている

迷ってるけど

白と黒のその間に 無限の色が広がってる

君に似合う色探して やさしい名前をつけたなら

ほら 一番きれいな色 今 君に贈るよ

 

Mr.Children「GIFT」より抜粋

 
 
 

「地球に、動物に、植物に、人間に優しく」っていうことで様々な活動をしている人がいる現在。

 

 

日本でも確実に、特に震災以降、多くの人が感性のシフトチェンジをしてきたと思うんです。

自分も冷えとりという感性で育ったこともあって、現代生活の中で何が調和的であるのかをそれなりに考えながら生きていて、その中でこのブログやmicro-change.comなどもやっています。

 

 

でも、いつもそんな事をしながら思うことがあるんです。

 

 

どんなことも何だかしらじらしい。自分なんて矛盾だらけだ。

 

 

浪費はしないとはいえそれなりに電気も使う。webデザインなどをやりつつ、例えばgoogleやdropboxにお世話になる(ビッグなIT関連の企業が持つデータセンターを冷却するのに必要なエネルギー量は尋常じゃない….)。日常生活の中で、状況によっては人道的でも環境的でもない食品を口にすることも多々ある。

 

 

自分では色々と勉強し気をつけているつもりでも、現代社会でそれなりに生活してると、現代社会を現代社会たらしめているシステムに加担してしまう。結局、人間生きている、それだけで自然や地球の調和を乱していると言えてしまう。
そして、そういう何とも言えない矛盾が他の人からすれば、「結局、あなた達ってきれいごと言ってるだけよね」って言われる種になるのだ。

 

 

でも、それでも良いんじゃないかって思うんです。確かに矛盾をはらんでいるかもしれない。でも、何かしらやっているわけです。スタートライン??スタートから1km地点??には立てているわけです。それだけでも良しとしたい。

 

 

何かこういう話になると、白か黒という話になりがちで、どうせ完璧にはできないのだから最初からやらないっていう人もいるけれど、そもそも人間は矛盾だらけすぎて、いつだってグレーゾーンにいると思うんです。それならそのグレーゾーンにいることを自分で許してあげられたら楽だし、その寛容さをグレーゾーンにいる他人にも向けられたらもっと色々と世界は優しくなっていくような気がします。

 

 

「〜〜でなくちゃいけない」という思い込みを手放して。

Mar, 21, 2013

私、kenkouboyも色々と変化がありましてあたふたしている今日この頃です。

人生って本当に奇跡というか、人間という自分がそれを好もうが好まいが、こう知らんぷりをされているかのように、デザインされているのだなと思っています。

 
 

色々考えてみると、人生に対しての人間の関わり方ってのいうのは人それぞれだなとつくづく思うのですが、

「人生における自分と何か見えないもの(神様のようなもの)との関係」

というテーマで考えてみると

 
 

見えないものの働きなんてまったく信じず、自分で人生は動かせると強く信じ、自分の行為の積み重ね(見えるもの)=人生だと思う人。

かたや、神頼みで、何もしなくても、神様が何とかしてくれると特に自分で積極的に動いたりしない人。

 
 

うん、いろいろな人がいる。

 
 

当の自分はというと、そのどっちでもなく、世の中も人の人生も見えないものに上手いことデザインされているなと思ってはいても、でもどこかでやっぱり人間の行為がそのデザインと深く関わっているのだなと思うわけです。

世の中、自分の行いだけではどうしようもないこともあって、そういう意味では人間は万能だなんて思わないのだけれど、やっぱり自分が勇気を持って何か踏み出してみる事で、見えないものが自分の人生のデザインを見せてくれるようなことってのは大いにあるんだなって思うんです。

 
 

要は、半分半分ということでしょうか。

 
 

「神様と自分、半分半分」

 
 

神様に頼ることなく、かといって「自分で何でもできるよ」だなんて驕ったりもせず。
自分の所作と見えないものの力、その組み合わせで人生が動いていく。

 
 

これは、なんというか今社会で起こっている色々な出来事にも言えることなのかもしれません。
原発のことも、TPPのことも、なんでもそう。。。
人間の所作という視点だけですべてを語ってないか。。。。

 
 

人間捨てたもんじゃない。
でも、調子にのりなさるな。

 
 

そんな事を考える、変化の春を目の前にした私でした。

Feb, 20, 2013
私事ながら、今日は大事な日。

 

 

今日で今のパートナーと付き合い始めて丸2年。台湾系カナダ人である彼女とは大震災があったあの日の少し前に出会った。それからというもの、震災の時も原発のことがありながらも日本に残って頑張ってくれた彼女とは、色々な事がありながらも2年という月日を一緒に過ごす事ができている。その事だけでまずとてもpreciousなのだ。

 

 

自分の中で2年間人と付き合うのは初めてで、さらにそれが異国の人であるから正直色々なことがあった。言葉も違えば、食べ物も文化も違う。ましてや、無宗教とクリスチャンという宗教的な大きな違いもある。とにもかくにも違いが多すぎた。

 

 

違いがありすぎて、まずはそういう小さくて大きな無数の違いを衝突しながらお互いで確認することから始まった。今でもそういった違いの確認は日常茶飯事だ。違いが生む衝突は正直疲れる。でも、不思議なもので違いというのは、愛を蝕んでいくものではないということに徐々に気付いてくるのだ。数年前の自分であれば、違うことが多ければ多いほどその2人の関係というものは離れていくものだと思っていた。でも、今思うのは、違いがあればあるほど、それを理解しようとする労力が生まれ、その労力に気持ちと体力を割けるということ自体が、愛の始まりなのではないかということ。

 

 

誰だって面倒なことはしたくない。違いを理解しようと努めるなんて明らかに面倒だ。誰だって自分の信条にYesと無条件に言ってくれる人は可愛い。でも、人間はある一定の人に対してはそういう面倒なことも平気でできてしまう。そう愛する人に対してはだ。親、子、パートナー、大切な友人。そんな面倒なことはしてあげたいと思える人にどれほど出会えるかというのは人生の中ですごく重要なものであるような気がする。

 

 

いつも思うことがある。やっぱり、人生は奇跡の連続だ。

自分が生まれる6年も前に台湾で生まれた一人の人間がその後ほぼ裏側のカナダに渡り、最終的に日本にやってくる。そこで、日本に23年もいる自分とたまたま出会う。どこかお互いの進路や気持ちに少しでも違ったところがあれば絶対出会わなかった。

 

 

そんな奇跡をこれからも大事にしたい。そして、パートナーに限らず、これまで出会った人、これから出会う人、そして物事。それはすべて本当に奇跡的に出会っている。スピリチュアルうんぬんかんぬんじゃなくて、本当に奇跡なのだ。だから、その奇跡をいつもキャッチできるように敏感に生きていきたい。

 

 

とにもかくにも、ありがとう。