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Oct, 14, 2013

久々のブログ更新でございます。

 

よくよく考えたら4ヶ月ほど、更新していなかった。

目の前の仕事に追われて、余裕がなかったというのが本音のところ。

 

5月に上京し、

2度の引っ越し的なものをし、

そして、つい最近、入籍をいたしました。

 

公私ともにバタバタとしていたこの半年間。

それでも、少し落ち着いてまいりました。

 

これからはまた自分なりの表現も、

また再開させていけたらなと思っております。

 

それにしても、

異国で生まれた2人が1つの国でがんばることって、

こんなにも大変だったのかと、

結婚してみて、

さらに気付き始めてみます。

 

もっと事前に色々調べておけっていう感じですが….笑、

それでも、いつでも見切り発車。

とりあえず、始めてみるっていう感じです。

 

みなさま、これからも何かとよろしくお願いいたします。

 

Jun, 09, 2013

6月9日。

 

すごく久しぶりに日記を書く。

上京して、1ヶ月。

めまぐるしすぎて、何かを書く余裕がなかったというのが素直なところ。

 

今日は、代官山に早朝から赴いて、本を読んだり、作業をしたり、

こういうことをしようと思えるようになったのもちょっと心が落ちついてきた証かもしれない。

 

とうきょうに来てから、なにせめまぐるしい。

電車も、時間も、仕事も。

スピード感の嵐。

とうきょうでは、色々なものがめまぐるしく動いていて、

こう、置き去りにされているものもたくさんあるんだろうと思う。

あくまで1ヶ月しかいないのだから、まだまだ冷静に見れてはいないと思うのだけれど。

 

場所や環境によって、

人はどんどん変わっていく。

自分で、気付かなくても、どんどん変わっていく。

「あなた、変わったわね」

なんて、言われるようなことも。

 

でも、やっぱりそんな中でも

こう芯みたいなものは持っておかないときびしい

「雑食動物のジレンマ」(マイケル・ポーラン著)ではないけれど、

芯がないということは、自分がいつも流行と同期するということだから。

良いようにシステムに組み込まれる。

いいもの

それは、自分で決めなきゃいけない。

でも、いいものを流行に任せてしまうと、

色々と不調になるのだと思う。

 

環境や場所によって、

もちろん人は変わるのだけれど、

それに甘んじてはいけないのかな。

 

こう、どこにいても、

普遍的な自分。

大事にしたいものを大事にできる自分。

時間や場所。

物理的なものを超えていく。

 

〜〜だから、

〜〜と一緒にいるから、

だから、自分はこうなの。

 

そういう思考から抜けていく。

 

とうきょうにいると、そんなことを感じる。

環境にとらわれると、

どんどん自分がかわってく都市だなと思う。

仙台に住んでいた頃に、たまにとうきょうに遊びにきて、

思ったあの感覚。

「のみこまれる」

それは、本当だった。

でも、今、それはコワイ感覚ではない。

ただ、フラットにそういう事実があるんだなという感覚。

 

きっと、この街にいるからこそ、

こう自分をもっと立ち上げる必要があると思った所存。

 

Apr, 26, 2013

わたしは心にこう言ってみた。

「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。

わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。

これも風を追うようなことだと悟った。

知恵が深まれば悩みも深まり知識が増せば痛みも増す。

 

-「コヘレトの言葉」1章16〜18節 -より抜粋

 

 

ニコラ・プッサン/ソロモンの審判

 

 

 

何かを知りたいという欲求。

 

知的好奇心。

 

誰にでもあるような欲求で、それ自体は人間の生活を豊かにする。

 

でも、ときどき、それがすごく厄介。

 

それが、驕りや偉ぶりに変わる時。

 

『知りたい』っていう欲求は、自分の内から生まれる自分勝手な欲望。

 

それに任せて、知識を付けただけなのに、それが偉いなんてことはよくよく考えたらありえない。

 

自分のする行動は、すべて結局自分のエゴなんだなと思う。

 

悪い意味じゃなくて、そう思うと自然で、「何が偉いか、偉くないか」っていう観点が消えてなくなる。

 

知識や智慧はいつだってこう自分の中に無駄な驕りを持たらすから、気をつけたい。

 

 

 

社会の中で息をして生きていると

 

こう常に、「知っておかなきゃいけない」ことってある。

 

ある職種の中での常識、冠婚葬祭のマナー、社会での常識。

 

それを考えるとたまに恐ろしくなる。

 

知らないことがあると恥ずかしいし、知らないことをただただ無くさないようにしないとって必死になって。

 

もう穴を埋めるような人生。

 

そもそも穴なんてないのかもしれないのに。

 

でも、そういう空気感も、ある種の知識とか智慧が一定の権威を持ってしまってるからなんだよなって思う。

 

知っていれば、普通のひと。知らなければ、変なひとって。

 

ある種の知識や智慧はこう権威を持ったら本当はいけないんじゃないかなって思う。

 

もちろん、倫理的、モラルなところで、みんなある程度共有していなきゃいけないラインはあるけれど(その倫理観、モラルでさえも十人十色だから怪しい…..)

 

ある種の知識や智慧、ルールで世界が動くんじゃなくて、こう「相手に優しく」とかっていう愛の観念だけで世界は回っていかないもんなのかな。

 

そうすれば、知識や智慧が権威を持つことだってなくなるかもしれない。

 

知らないことが悪じゃなくなるかもしれない。

 

みんなが愛のもと、自分基準で動いても何も恥ずかしくなくなるかもしれない。

 

知らないことに対して怯えなくても良くなるかもしれない。

 

とあれこれ考えながら、頭は宙に浮いている。

 

Apr, 25, 2013

イライラ。

 

変な感情。

 

そんな感情に常にのまれて。

 

本質的な生活ができない。

 

世の中の人が全員自分と同じような人間であることを求めてるのか?

 

誰かが自分のペース、価値観と合わないことが苦痛で、ムズムズして、湧き出る感情。

 

イライラ。

 

いつから自分はそんなに偉くなったろう。

 

イライラって上から目線。

 

世界は自分のものか。

 

コントロールできると思ってるのか。

 

どっちが偉いというわけではないのに、イライラしてる方が何だか偉くみえる。

 

イライラしたもん勝ちだね。

 

イライラしてない人はなんか鈍感に見えるし、低く見えるのかもしれないね。

 

でも、本当に心が豊かなのはどっちだろう。

Apr, 22, 2013

4月21日。仙台は雪。

 

 

 

 

とにもかくにも、「プラダを着た悪魔」を観つつ、のんびり。

 

 

 

その後は、週末にゲットした、この2冊に没頭。

 

 

 

こうなんとなく、最近は言葉の持つ力強さ、鋭さ、危うさについて考えさせられる日々。

人と人の関係が心と裏腹に悪くなっていく時、そこには言葉の不調があるような気がする。

というのも、こういう事を感じるのは特に自分が英語を使って、パートナーとケンカするときなのだ。

まだまだひ弱な英語で話す自分は、もちろん間違った英語の使い方をする時も多々あって、もう本当に歯がゆいのだけれど、よくよく考えてみれば、それは自分がただ第二言語を話してるからなのか。

 

 

そうでもないような気がする。

日本語で話す時も、きっとあまり思慮深く注意して話しているわけではない。

それが、きっと問題なんだ。

日常生活の中で、流れの中で、感情に飲み込まれるままに、言葉を言い放ってしまう時がある。

でも、そこにこう言葉の不調があるんだなと思う。

言葉を放つ前に、色々と考えられることはたくさんある。

でも、それをせずにぽろぽろと言葉をこぼしていく。

 

 

そんなに言葉は無限なのか。

言葉が出てくる前に、一度飲み込んであげる行為。

力と感情と思慮を溜め込んで、丁寧に言葉を放つ行為。

それって、きっと色々な関係を良くしてくれるかもしれない。

 

 

そんなことを感じながら新しい週を迎えます。